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はさコレ|HASA-KORE

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文具はさみの日
トップページ エッセイ 鋏のこと
ESSAY
はさみのこと
エッセイ

映画監督の西川美和さんによるスペシャルエッセイです。2021年春に最新作『すばらしき世界』の公開を控えている西川さんは、小説やエッセイでも活躍されています。そんな西川さんが日常から思う、はさみへのアレコレをつづっていただきました。

エッセイ

はさみのこと

西川美和

チキンソテーを作るのが好きです。
 正確には、チキンの下ごしらえでモモ肉の間のスジや筋膜きんまくを指先でたぐり、台所用鋏で一つ一つ断ち切る、あの感覚が好きです。真っ白いスジはまるでシリコンやウレタン製の強靭きょうじんなゴム紐のようで、また薄い筋膜はオパールのように繊細に輝き、妙な言い方ですが「実によくできている」。こんなものが生き物の体内にあるとはねえ、と思いつつ、だけどきっと似たようなものが自分の身体の中にも張り巡らされているのだろうと想像すると、チキンと自分自身が地続きにある気がして、ゾクゾクっとするのです。チキンは「チキン」になる前、一羽の生きたニワトリだった。この一本一本のスジも、その筋肉や脂肪を支えるために、全てが微細に役目を果たしていたのでしょう。たとえその一生がケージの中で終始し、生まれてこのかた天日のもとで一歩の運動も許されなかったとしても、その骨や、肉や、腱は、いつでも表を走り回り、跳ねまわれるように備えて作られていた。いま私が太ももの中のスジの一本でも切られたら、明日からの歩行もままならないでしょう。そう思うと痛々しいはずなのに、容赦なく私はそれをぶった切る。柔らかくて口当たりのいいチキンソテーに仕上げるために。私たちはそういう生き物で、そうやって生きている。そんなことを考えるのは、テーブルについてお皿に乗った料理を待つのではく、生の肉や魚を指や道具を使いながらいじるときだけです。

手触りを感じることの少ない生活になりました。私は田舎の家に育ったので、土をいじったり、お茶の葉をむしったり、木の実をもいだり、乾いた幹の皮や、枝葉の棘の痛さや、池に張った氷の冷たさや、カエルや昆虫を手のひらに包んだときの感触を覚えながら大きくなりましたが、今では毎日指に触れるのは、平たい液晶板やキーボードがほとんどです。微妙なチューニングをしなくてもラジオもテレビも映画も選べるし、切符を買わなくても電車に乗れるし、誰かと喋らなくても買い物ができ、人と会わなくても会議までできるようになりました。こうして今書いている原稿も、顔も知らない方から依頼を頂いて、書きあがればワンクリックでお届けするのみでしょう。私の手は、もはやほとんど何も触って生きていません。

鋏でものを切るときには、手触りがあります。その感触も千差万別ですが、一度経験すれば味覚や嗅覚に似て、切るものと、切った鋏と、全ての組み合わせをかなり正確に覚えている気がします。同じ台所用鋏で切るのでも、鶏肉のスジと利尻昆布とこんにゃくの袋の口を開ける時とでは全く違う。工作鋏で切る手紙の封。裁ち鋏でしゅうっと裁つ一枚布。散髪用の鋏でざくりとやる前髪。どれもそれぞれの刃物のこすれあう音とともに、手の中に記憶が刻まれています。うちの中にはいくつかの鋏があり、鋏で物を切ることが時代とともに少なくなったという実感もありません。生活の中にわずかに残った、侵されざる手触りです。

「きる」とか「たつ」という言葉は鋭く、危険で、また後戻りを許されない緊張感をはらんでいます。実際に、鋏で切った後に「あれまあ」という経験は数え切れず、封筒の口も、布地も花の茎も前髪も、勢いに任せれば大抵いけないことになっている。物事を失敗なく切ったり断ったりすることは、実に勇気と知恵と先見性とが試される、とても難しいことです。けれどその後戻りのできない危うさと、何かが始まる期待のないまぜになったわくわくが、鋏で物を切るときのあのギャンブリングな感触に満ちていると思うのです。ちょん切れて、せつなく何かが終わり、それが失敗でも成功でも、否応無くその後には何かが始まってしまう感じ。切ってみなければ出てこなかった知恵もある。よく切れる鋏で、ものを切る瞬間が好きです。

西川美和にしかわみわ
映画監督。1974年、広島県出身。早稲田大学第一文学部卒。2002年に平凡な一家の転覆劇を描いた『蛇イチゴ』でオリジナル脚本・監督デビュー。第58回毎日映画コンクール・脚本賞ほか。
  • 2006

    対照的な性格の兄弟の関係性の反転を描いた『ゆれる』を発表し、第59回カンヌ国際映画祭監督週間に出品。国内で9ヶ月のロングラン上映を果たし、第58回読売文学賞戯曲・シナリオ賞ほか。また撮影後に初の小説『ゆれる』を上梓した。

  • 2009

    僻地の無医村に紛れ込んでいた偽医者が村人からの期待と職責に追い込まれてゆく『ディア・ドクター』を発表。
    本作のための僻地医療の取材をもとに小説『きのうの神さま』を上梓。

  • 2011

    伯父の終戦体験の手記をもとにした小説『その日東京駅五時二十五分発』を上梓。
    火災で一切を失った一組の夫婦の犯罪劇と、彼らに取り込まれる女たちの生を描いた『夢売るふたり』を発表。

  • 2015

    小説『永い言い訳』を上梓、初めて原作小説を映画製作に先行させた。16年、映画『永い言い訳』を発表。

  • 佐木隆三氏の小説「身分帳」を原案とし、人生の大半を刑務所で過ごした男の再出発を描いた『すばらしき世界』(主演・役所広司)が2021年2月11日(木・祝)公開予定。
    9月に開催されるトロント国際映画祭への出品が決定している。